昭和44年05月25日 特別奉修委員



 すべての事に通じる事だと思うのですけれども。任せて縋るという事。これを今日はあの朝の御理解に子供の例を取ってまぁ話ししましたが。放任主義といったような言葉を使いましたが、あれは放任ではなくて、信じて任せるという事ですね。放任と言うのは、放からかすと言うて、離して任せるですから放任と違うですね。信じて任せる。神様を絶対なものとして、神様の働きを絶対なものとしてお任かせする。こりゃ子供の教育においてもそれは言えるですね。
 ですからあのそこんところを私共がなまっじかな教育を、自分が育てようとかしつけようとかという様な事は大変なこれは間違いでありましてね。こりゃあのうその子供だけのこっちゃありませんが、神様がどうとかして下さろうといった様な事をですね。お任せしとるというのは、神様にお任せしとりますからというのは、余りにもの任せ方であってね。信じて任せておるといういう様な感じにならんとおもうですね。今御祈念中に佐田さんのところの恵介君が、何か光昭に話しよう声が聞こえて来るですがねぇ。」
 「光昭兄ちゃんそんなら神様にお尋ねしてくれ」と言いよったでしょうが。もう自分の言うておる事をね。本当と分からせる。もう神様を絶対なものだとこう思っておるね。だからなら「神様に聞いてね、光昭ちゃん」と大変にといいよるね。神様を絶対なものとして育っているという事ですね。それには先程、今あのう佐田さんからお届けがあったんですけども。あぁして何カ月間毎朝、朝の御祈念にお参りしてくるんですから、もう子供としては大変なもう睡眠時間が少ない訳ですよね。
 普通から言うたらもう本当にちょっと親は馬鹿じゃなかろうか、ちゅうごたる訳ですよねそこに気を使わんという事は。けれどもそれをやはりこりゃやはりあのう止めさせて、やっぱり睡眠を充分取らせなこて、といった様にそのう心配し思うた事もあったけれども、とにかく神様がお育て下さるんだとね。だからもういかん時には神様が本人がもう僕はもうお参りはせんと言う風に言うて来る時期があるだろうからね、又それがそのう神様がそのお参りをする事をお許し下さるなら、いつまでも続けさせて下さるだろうから。
 そういう事は自分で睡眠時間があるからないから、これはちょっとお父さん考えなきゃいかんですよ、なんてここで心配するという様な事は、もういけない事だと感じてそのうお願いさせて頂いとると、いう様な意味の事をここでお届けしとられましたが、これなんかは放任じゃないですよね。信じて任せてある訳ですね。その事によって学校で居眠りする事があるかも知れん。その事によって学校の学業の成績も少しは下がる事があるかも知れん。そんな事は問題じゃない。ひっかからんでよい今朝の御理解ですね。
 だから本当に徹底した合楽精神と言うか、本当の信心というのは先日私熊谷さんにね、そのう子供さん達ちゃあっちは皆んな、嫁に行ったり嫁もまかしとるのばっかりですから、大きな人達ばかりですけれども。例えばなら私の信心に付いて来ないといった様な事でも、何十年間という間、自分が育てて来とるという事をですね。まず詫びなけりゃいけんとすべきだと今申した事ですけれどもね。自分が育てて来とる、信心しとっても自分のその考え方をですね、教えて来ておる。
 例えばもう行儀ひとつにしても、こげせなあげせなというてまぁ言うならね、型どおりな型にはめて教育しておる事が、どのくらい本当の自由に伸ばそうとして下さる神様の働きを、阻害しとるか分からないという事ですね。あのう分からしてもらって、とにかく自分が私が教育しておるとして来た事のお詫び、そしてお願いをするという事になってこなきゃいかんでしょうね、といってまぁ話した事ですかね。厳密に言うとやはりそういうなら厳しい事になる訳ですね。ですからそこんところをお任せしておるという。
 只放任しての事にも、離して任せる放任と書いてありますがね。だから信任、信じて任せるというところにならなければ、本当のおかげの事にならんし、また本当の安心も生まれて来ないと思うですよね。どうぞひとつ全ての事が、もう私なんか神様任せといって、それを放任主義をとっておる事があるのですよね。それでは本当のおかげにならん。やはり信じておるから任せられる。ところが実際問題としては心にやはり不安が起こる、そわそわがある信じて任せておるようであってもやはり心配がある。そこの心配を私は修行で補うていかなきゃいけんと思うですね。
   どうぞ。